土蔵に使われていた最大の材がこれである。屋根を支える棟木二本が中央の大黒柱でつながっている。建物は七間の長さがあるので、それぞれ三間半の長さということになる。
岩井沢さんの話では、それぞれが1トン近い重さであったそうである。
大黒柱との結合部分のホゾのようす。
旧「亀吉と昆鳥庵」
去年3月の土蔵解体のときにはかなり多くの写真を撮った。多く撮ったつもりであったが、もっといろんな角度から撮っておけばよかったと後悔しきりである。今になって写真を見ていると、現在の様子と比べることができるし、普段は見ることのない建物の内部構造を見ることもできる。とても面白いのだ。
たとえば屋根。たいていの建物で屋根には瓦やトタンやカヤが葺いてある。それは見えるけれど、その下はどうなっているのだろう。屋根裏は暗くて、ホコリだらけで、湿っていて、変なにおいがして、時にはうれしくない生き物がいるかもしれないから、できればのぞき込みたくない場所だ。だから解体のときが貴重なのである。
この写真は屋根と壁をすっかり取り去って、構造材だけの骨組状態になったときのものだ。
一方こちらは、その少し前の状態。 屋根も壁もまだ少し残っている。そして屋根が二重になっている様子がよく分かる。
同じ写真の屋根の部分を拡大したのがこれだ。 下の屋根は壁に続いていて、厚い土がしかれていた。断熱、防湿のために昔の人があみ出した工夫であったのだろう。二ヶ所に矢印を描きこんである。そこを別の角度から撮ったのが次の写真である。
その部分の様子はこのように材が交差している。 こんなのがよく見えれば 随分しゃれていると思うのだが、普段は目に見えないところであるのが残念。外側の屋根とその下の屋根との間には、かなりの空間がとってあるということだ。 昆鳥庵では、ここには現代の断熱材がたっぷりと敷いてある。そのおかげで四代目は初めての冬の厳しい寒さをしのぐことができた。夏の暑さに対する効果はまもなくわかるだろう。
現在の昆鳥庵の出窓を外から見たのが左の写真である。上の解体写真の一階に幅一間の大きな出窓をふたつ作ってもらった。窓の中央には元の柱が残っている。出窓だからこれができた。
部屋の中から見ると右の写真のようになる。かつて横板が通っていた細長いホゾ穴が建物の過去を語っているかのようだ。内部はほとんどがらんどうであった。なぜか小さな木のイスが残っていた。直線の板を組み合わせただけの、無骨なイスだ。よく見るとイスの背中に家紋らしき模様がくりぬいてあった。同じものが二脚あった。おそらく処分されそうな感じがしたので、二つとももらってきた。
家紋部分を拡大したのが右の写真。
インタネットで調べてみたら花菱紋 というものであることがわかった。なかなか繊細な曲線をくりぬいて、丁寧に作ってある。土蔵の所有者の家紋であろうか。なんとも由緒を感じさせる。
現在は植木類がごちゃごちゃと置いてある。


大きな材木の中央に案外小さな窪みがあって、そこに蒸した漆の実を入れた袋を置いて、両側からくさびではさみ付けているのである。くさびの締め付けを強くするために、上から杵でたたく。すると下から蝋がたれるので、それを集めるわけだ。
右下の写真が蝋の塊である。大きなブロックのようだ。漆蝋の生産は昭和の初期には終わっていたようだから、この蝋も相当に古い。
板は五枚一組で縛られていた。それぞれに年号が記されている。たとえば左上の板には「慶応」の年号が見える。板はばらばらであるが、蝋を固める際に、その都度箱に組み立てたものらしい。
右の写真は、博物館の売店で売られていた写真資料の表紙である。中央に組み立てたものが写っている。
姉帯村は土蔵のあった地域名であるからよいとして、中央の「穢」(けがれ)の文字は何だろう。文化九年の板に書かれたのは「賀」で、おめでたい文字が使われているのに、その正反対とは。まあ、いろいろな風習があるのだろうとは思うが。

