2008年3月26日水曜日

家紋

御所野博物館に収蔵されている漆蝋の製造に関する道具類以外にも、土蔵にはいろんなものがあったようだ。学芸員Yさんの話では、多くは地域の小学校にあるはずだとのことであった。

土蔵の解体は去年の3月に行われた。四代目も様子を見に行った。写真はそのときのものである。 ちょうど今から一年前はこんな姿であったのだ。

内部はほとんどがらんどうであった。なぜか小さな木のイスが残っていた。直線の板を組み合わせただけの、無骨なイスだ。よく見るとイスの背中に家紋らしき模様がくりぬいてあった。同じものが二脚あった。おそらく処分されそうな感じがしたので、二つとももらってきた。

家紋部分を拡大したのが右の写真。 インタネットで調べてみたら花菱紋 というものであることがわかった。なかなか繊細な曲線をくりぬいて、丁寧に作ってある。土蔵の所有者の家紋であろうか。なんとも由緒を感じさせる。


現在は植木類がごちゃごちゃと置いてある。



2008年3月21日金曜日

蝋しぼり


博物館に収蔵されているのは漆蝋を絞るための道具類一式だ。いろいろあったけれど、わかりやすい物を取り上げる。
左はくさび、右は杵である。


これだけではどのように使うのかがよく分からない。そこでもう一つ、博物館で買った「岩手県北地方の漆蝋」という報告書の表紙を借りる。下の写真である。下帯だけの男が二人で杵を振るっている場面である。

大きな材木の中央に案外小さな窪みがあって、そこに蒸した漆の実を入れた袋を置いて、両側からくさびではさみ付けているのである。くさびの締め付けを強くするために、上から杵でたたく。すると下から蝋がたれるので、それを集めるわけだ。

このとき落ちてきた蝋を受けるのが、前回書いた組み立て式の箱である。蝋が冷えて固まってから箱板を外せば、蝋の塊をすぐに取り出すことができる。組み立て式の箱でないと、塊は簡単には出てこない。 組み立て式になっている意味がようやくわかった。 右下の写真が蝋の塊である。大きなブロックのようだ。漆蝋の生産は昭和の初期には終わっていたようだから、この蝋も相当に古い。

それにしても蝋作りはずいぶんと大掛かりなものである。かつては蝋がそれだけ重要な産品として売買されたということである。土蔵の所有者は、姉帯村だけではなく、近隣一帯の大地主であったようで、多くの住民から漆の実を買い集めて蝋の生産を手がけていたそうである。

2008年3月19日水曜日

御所野縄文博物館にて

3月16日の日曜日、一戸町にある御所野縄文公園の博物館へ出かけた。

インタネットで検索した14日に博物館に電話をかけて、去年の企画展で展示された漆蝋関係の道具は岩手日報の記事に出ていたものであること、現在展示は終わったがその道具類は博物館に収蔵されていることを確認した。そして土蔵を移築してもらって、現在わたしがそこに住んでいることを話し、ゆかりの道具をぜひ見たいとお願いしておいたのである。電話の向こうでは、こころよく願いを受けてもらえた。

というわけで、首尾よく16日には博物館の学芸員Yさんに案内していただいた。

この写真で右下の板に「文化九歳 申六月 賀」と記されている。新聞記事にもなった日付である。

板は五枚一組で縛られていた。それぞれに年号が記されている。たとえば左上の板には「慶応」の年号が見える。板はばらばらであるが、蝋を固める際に、その都度箱に組み立てたものらしい。

右の写真は、博物館の売店で売られていた写真資料の表紙である。中央に組み立てたものが写っている。

毎年一つの箱を新たに作っては年号を書き記したのだろうか。と思ったら、年が書かれていないのもあった。下の写真では、右下に「姉帯村」とあり、中央には大きく「穢」と書いてある。

姉帯村は土蔵のあった地域名であるからよいとして、中央の「穢」(けがれ)の文字は何だろう。文化九年の板に書かれたのは「賀」で、おめでたい文字が使われているのに、その正反対とは。まあ、いろいろな風習があるのだろうとは思うが。

話はそれるが、初めて土蔵を見に行ったときに、「姉帯」の地名表示を何と読むのか戸惑った。これは「あねたい」と読む。学芸員のYさんによれば、アイヌ語でアネは「細長い」、タイは「森」を意味するそうだ。岩手県北部にはアイヌ語に由来する地名が多く残っているようだ。

2008年3月14日金曜日

文化九年の箱

再び岩手日報の記事である。



この記事によれば、発見された漆蝋関係の箱板に「1812年(文化九年)」の古い記述があったとのことだ。

確かに、四代目が岩井沢工務所から最初に話を聞いたときは、200年近く前に建てられたものかもしれないとのことだった。この箱の発見が推測の根拠になっていたのである。

亀吉ほかの大工が土蔵を建てたのは、明治15年であるが、そのことは蔵全体を解体するまではわからなかった。時が経つにつれて土蔵を所有している一家も代が変わり、建設の年代がわからなくなって行ったのである。棟梁たちの署名がなければ永久にわからなくなっていたことであろう。記録がいかに重要な役割を果たすものかを改めて知らされた。

それにしても、文化九年の箱はどんな箱だろう。箱が作られてから土蔵が建つまでに既に60年が経っていたのだから、当時でも古い箱であったはずだ。よほど物持ちのよい人たちであったのか、よほど立派なしっかりした箱であったのか。一度は見る価値がありそうだ。

発見された品々は町に寄贈されたと記事にあるので、機会があれば見に行きたいものだとかねて思っていた。インターネットで検索をしているうちに、一戸町の御所野博物館で昨年漆関係の企画展があったこと、その中に記事に出てくる発見物が含まれていることがわかった。

2008年3月12日水曜日

大黒柱と大梁

大黒柱と大梁との結合部分はこの写真のとおりである。表面からは何も見えないけれど、この中にはいろいろな細工があるわけだ。初代亀吉ほかの署名があるのは、どうやらこの写真の反対側のようである。左奥は、一階が台所、二階が寝室になった。




それにしても我らが初代亀吉の署名が他の二人からやや離れているのが気になる。棟梁である末太郎と富太良は同格の熟練大工であったのに対して、亀吉はまだ見習い大工であったのだろうか。年齢も一番の年下であったのかもしれない。

しかしよく見れば、亀吉の筆跡はあとの二人よりもかなり達者であるように見える。案外亀吉は腕のいい古参の大工であったが、棟梁にはなれない家系の人であったのかもしれない。

この署名一つを見ているだけで、いろいろなことを考えさせられるものだ。

2008年3月11日火曜日

土蔵ができたのは


昆鳥庵の前身である一戸の土蔵はいつ建てられたのか。

それは明治15年12月であることがわかっている。なぜわかるかというと、大黒柱の中央部分に写真のように大きなほぞ穴が開いていて、そこに「明治十五年十二月十九日」と日付が明記されているからである。その下には「一戸大工棟梁 末太郎 富太郎 亀吉」と三人の名前がある。

大黒柱は、このほぞ穴の部分で、二階を支える大梁と結合している。だから建物全体を解体する機会でなければ、この表記は人の目に触れることがない。125年間隠されていた三人の名前は、解体後わずかな期間だけ外気に触れ、再び昆鳥庵の中心に納められた。

これを目にする次の人は誰であろうか。いつであろうか。

2008年3月4日火曜日

漆蝋の発見


2006年9月に一戸の土蔵を見に行ってからほどなくして岩手日報という地元の新聞に写真の記事が出た。

見出しは -「漆蝋」の塊見つかる 一戸で県内初 地域産業の貴重資料ー とあった。見つかったのは約26キロの漆蝋の塊三個、蝋を流し込む組み立て式蝋箱の箱板、蝋を搾るための竹細工の蝋締めかごなど150点であったそうだ。記事によれば、2006年8月に姉帯の旧家駒木家の土蔵で取り壊しに伴う調査で発見され、町に寄贈されたとのこと。

移築の話を伝えてくれた岩井澤工務所によれば、記事にある土蔵は正に見に行ったばかりの土蔵であった。調査は一戸町教育委員会が行ったもので、その際に土蔵の正確な図面が作成されたらしい。図面の写しをいただいた。

この図面には建物の寸法だけでなく、使われた材の種類も書かれていて、この手の知識に乏しい不肖の四代目にはとても貴重な資料である。

2008年3月2日日曜日

持ち上げられた屋根

大黒柱の上には棟木が乗っている。これが屋根の全体を支えているわけだ。

 
棟木の上に若干の空間が空いているのが見える。これでもともとの屋根を約30cm高く持ち上げている。なぜこんな工夫をしたのか。

こちらの写真は和室である。


障子の上の太い横板に細長い三つのくぼみが見える。このくぼみは単なる飾りではない。もともとはその30cm上にある斜めの垂木がそこにはまっていた。くぼみの高さは床から160センチほど。つまり初代亀吉が建てた土蔵のままでは壁際に立つと、頭がつかえるのである。

土蔵は人がいつも住む建物ではないからそれでも良かったが、住まいとしては窮屈だろう。こんな風に屋根の全体を持ち上げることによって、四代目は快適な生活を保証されているのである。ありがたい。

2008年3月1日土曜日

大黒柱

2006年9月、はじめて見た土蔵の二階。 写真で見ると、天井の左奥には大きなきのこが育っているのが分かる。現場ではあまりはっきりした記憶がない。見えていなかったのかもしれない。


いろんなものが雑然と置いてあって、住居になった時に狭いのか広いのか、よくわからなかった。床面積は28坪あるので、二階建てならその倍の56坪になる。外国での生活は別として、今まで暮らした日本の家の中ではだんとつの広さになる。しかしその時受けた印象では決して広いとは思わなかったし、天井もむしろ低い感じがした。

現在の大黒柱は吹き抜けに面している。左奥は独立した寝室になった。もうひとつの大きな変化は天井の高さである。棟木の上に約30センチの空間ができたのである。(続く)